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人生朝露

人生朝露

荘子の夢、蕉鹿の夢。

『インセプション(Inception)』(2010)。
だいぶ前ですが、『インセプション(Inception)』(2010)の話の時に引用した、「蕉鹿の夢」「芭蕉葉の夢」の補足。

参照:映画『インセプション』予告編
https://www.youtube.com/watch?v=ZfDm3s_IcqM

ホルヘ・ルイス・ ボルヘス(Jorge Luis Borges 1899~1986)。
アルゼンチンの作家・ホルヘ・ルイス・ ボルヘスの『ボルヘス怪奇譚集』にも、『荘子』の「胡蝶の夢」や「西施の顰みに倣う」と並んで収録されているお話です。

列子(列禦寇  Li?z?)。
鄭人有薪於野者、遇駭鹿、御而擊之、斃之。恐人見之也、遽而藏諸隍中、覆之以蕉、不勝其喜。俄而遺其所藏之處、遂以為夢焉。順塗而詠其事。傍人有聞者、用其言而取之。既歸、告其室人曰「向薪者夢得鹿而不知其處。吾今得之、彼直真夢者矣?」室人曰「若將是夢見薪者之得鹿邪?詎有薪者邪?今真得鹿、是若之夢真邪?」夫曰「吾據得鹿、何用知彼夢我夢邪?」薪者之歸、不厭失鹿、其夜真夢藏之之處、又夢得之之主。爽旦、案所夢而尋得之。遂訟而爭之、歸之士師。士師曰「若初真得鹿、妄謂之夢。真夢得鹿、妄謂之實。彼真取若鹿、而與若爭鹿。室人又謂夢仞人鹿、无人得鹿。今據有此鹿、請二分之。」以聞鄭君。鄭君曰「嘻!士師將復夢分人鹿乎?」訪之國相。國相曰「夢與不夢、臣所不能辨也。欲辨覺夢、唯黃帝、孔丘。今亡黃帝、孔丘、孰辨之哉?且恂士師之言可也。」
(『列子』周穆王 第三)
→鄭の国に原野で薪を拾う男がいた。男は原野でばったり鹿と出くわして、驚く鹿を擊ち倒した。男は仕留めた鹿が他人に盗まれはしないかと恐れ、干上がった池に隠し、芭蕉の葉で覆った。しめたものだと男は喜んだ。ところが、ふとしたことで、男は肝心の鹿を隠した場所を忘れてしまい、いつしか「あれは夢だったのではないか」と考えるようになった。家路に着くまでの間、鹿のことを順を追ってつぶやきながら帰った。そのつぶやきを盗み聞きした者がいて、その者がまんまと鹿をわがものとした。
 盗み聞きをした男は帰って妻に言った「薪拾いのヤツが鹿を獲って隠しておいたんだが、そいつは隠した場所を忘れてしまってな、「あれは夢だった」と考えたらしい。ところが、そいつのつぶやきどおりに探してみたら、ちゃんと鹿がありやがった。あいつは正夢をみたんだろうよ。」
 すると妻が答えた「お前さんこそ、薪拾いの男の夢をみていたかも知れないわ。その薪拾いはどこの誰なのさ?でも、鹿は確かにここにあるから、お前さんの方こそ正夢をみたかも知れないわ。」
 「目の前に鹿はあるじゃねえか。俺とあいつのどちらかが夢をみていたなんて考えることもあるめえ。」
 そのころ、薪拾いの男は、鹿をなくしたことをくやしがった末、ふてくされて眠っていた。その夜の夢で、男は例の鹿を隠した場所で、他人がその鹿を盗んでいる様子をまざまざと見た。
 翌朝、薪拾いの男は昨夜の夢の出来事を思い出し、鹿を盗んだ男を突き止めて裁判を起こした。
 判事はこう結論づけた「一方は現実に鹿を得たにもかかわらず、自分でそれを夢だとした。その後、夢の中で忘れた鹿の在処を知りながら、現実に鹿を盗まれたと主張している。相手方は、現実に鹿をせしめていて、現に争っているわけだが、相手方の妻によると、夢で鹿の在処を知ったのであり、誰からも盗んだわけではないと言う。今、現実に鹿がある。両名で分けるがよい。」
 鄭王がその話を耳にして「その判事も夢の中で鹿を二分したのではあるまいか?」といい、大臣に意見を求めると大臣はこう答えた「夢か夢ではないか、臣にはとてもその区別などできません。黄帝や孔子のような方ならばそれを分けたがったでしょうが、黄帝、孔子なきこの世において、だれがそれを区別しましょうや?この判決に従っておいてよいと思われます。」

・・・この「夢の中の鹿を巡る裁判」の証拠は、証言のみで物証がないので、今の裁判所ならば棄却判決ですかね(笑)。ま、古代中国であろうが、現代の裁判制度であろうが、裁判官という職業は「現実にその場に居合わせたわけでもないにもかかわらず、別の時間、別の場所で、そこにあったように推測される証拠から事実を認定する」のが仕事であることにかわりはありません。ただでさえ直接目で見たり、手に触って確認することのできない場所で事実を認定する作業なので、そこに「夢」がからんでしまうと、現代でも難問だと思います。

邯鄲。
能楽に「邯鄲」という、「一炊の夢」や「邯鄲の枕」とも言われる寓話を元にした有名な演目があります。世阿弥の作では道教の神に桜の延命を願い出る「泰山府君(たいざんふくん」』などもありますが、日本の能楽には仏教のみならず、道教や道家思想の観念を下敷きにしている演目が多く見られます。

参照:Wikipedia 邯鄲の枕
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%AF%E9%84%B2%E3%81%AE%E6%9E%95

上記の『列子』の「蕉鹿の夢」も金春禅竹作の「芭蕉」という謡曲の中で使われています。

>シテ「よしや思へば定なき。
>地 「世は芭蕉葉の夢の中に。牡鹿の鳴く音は聞きながら。驚きあへぬ人心。

参照:宝生流謡曲 「芭蕉」
http://www5.plala.or.jp/obara123/u1163basyo.htm

これ、『荘子』の斉物論篇のリメイクだと思われます。

Zhuangzi
「夢飲酒者、旦而哭泣。夢哭泣者、旦而田獵。方其夢也、不知其夢也。夢之中又占其夢焉、覺而後知其夢也。且有大覺而後知此其大夢也、而愚者自以為覺、竊竊然知之。君乎、牧乎、固哉。丘也與女、皆夢也、予謂女夢、亦夢也。」(『荘子』斉物論 第二)→夢の中で酒を飲んでいた者が、目覚めてから「あれは夢だったのか」と泣いた。夢の中で泣いていた者が、夢のことを忘れてさっさと狩りに行ってしまった。夢の中ではそれが夢であることはわからず、夢の中で夢占いをする人すらある。目が覚めてから、ああ、あれは夢だったのかと気付くものだ。大いなる目覚めがあってこそ、大いなる夢の存在に気付く。愚か者は自ら目覚めたとは大はしゃぎして、あの人は立派だ、あの人はつまらないなどとまくし立てているが、孔子だって、あなただって、皆、夢の中にいるのだ。そういう私ですら、また、夢の中にいるのだがね。

列子という人は、形式的には荘子の先輩格にあたる人なんですが、書物としての『列子』は、『荘子』よりも後にできたものと断言して支障はないと思われます。『列子』の周穆王篇というのは、『荘子』の『斉物論篇』のリメイクのような寓話が多く、夢にまつわる話も、荘子に比べると論理的で、構造も練り上げられたものがあります。ただし、単に技巧的な物語では、本来の道にそぐわないので、個人的には『荘子』の補助輪として『列子』として読みます。

列子(列禦寇  Li?z?)。
『周之尹氏大治產、其下趣役者、侵晨昏而弗息。有老役夫、筋力竭矣、而使之彌勤。晝則呻呼而即事、夜則昏憊而熟寐。精神荒散、昔昔夢為國君。居人民之上、總一國之事。遊燕宮觀、恣意所欲、其樂无比。覺則復役。人有慰喻其懃者、役夫曰「人生百年、晝夜各分。吾晝為僕虜、苦則苦矣。夜為人君、其樂无比。何所怨哉?」尹氏心營世事、慮鍾家業、心形俱疲、夜亦昏憊而寐。昔昔夢為人僕、趨走作役、无不為也。數罵杖撻、无不至也。眠中啽囈呻呼、徹且息焉。尹氏病之、以訪其友。友曰「若位足榮身、資財有餘、勝人遠矣。夜夢為僕、苦逸之復、數之常也。若欲覺夢兼之、豈可得邪?」尹氏聞其友言、寛其役夫之程、減己思慮之事、疾並少間。』(『列子』周穆王 第三)
→周に尹氏という大金持ちがいた。資産を増やすため、使用人たちに眠る暇すら与えないほど働かせた。使用人の中には、身体が思うように動かなくなった老齢の者もいたが、その者も休むことを許されなかった。老いた使用人は、昼間はあえぐように働き、夜にはぐったりとして眠った。
 眠りについた老人は、毎晩、多くの民を従え、一国の国事を取り仕切る王様になる夢をみていた。夢の中の豪華な宮殿で、栄耀栄華は思いのまま。それは比べようのない楽しさだった。王様になった夢から覚めると、元の使用人に逆戻り、という毎日。友人が「大変ですね」気遣うと老人は言った。「人の一生は百年。昼と夜が半分ずつで、昼間は下僕、夜中は王侯。何を恨むことがあろう?」
 その一方で主人の尹氏は、世間の儲け話や家業のことを気にして心をすり減らす毎日。夜にはぐったりとして眠っていた。毎晩、尹氏は夢の中で、下僕として使役されていた。何から何まで命令どおり走りまわされ、鞭で傷めつけられる。夜な夜なそんな夢に明け方までうなされ続け、悩んだ尹氏は友人を訪ねて相談してみた。
 友人は尹氏に言った。「お前は財力もあり余っていて、他人と比べても十分に恵まれた身分じゃないか。帳尻を合わせるために、夜には下僕となっても仕方あるまい。夢の中まで思い通りにしようなんて、できると思うか?」
 尹氏はその話を聞いて思い直し、使用人たちの苦役を減らし、金儲けの話を気にしないように心がけた。主人も使用人も、幾分か安らいだ。

今日はこの辺で。


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